1646年11月、清に降るため福州に赴いた鄭芝龍は、監禁され北京に連行された。未だ福建に残る鄭一族との交渉に利用されるであろうことは明白であった。
清軍は前年、進攻の際頑強に抵抗した揚州に対して、見せしめの如く虐殺を行っている。おとなしく降伏すれば危害は加えないが、抵抗すれば容赦はしない、ということである。そんな清軍が1646年11月末、鄭芝龍の本拠・安平鎮に進攻した。芝龍の降伏に同調しなかった者達に対する安平鎮への暴虐は苛烈を極めた。城内には成功の母・田川マツがおり、この時亡くなっている。マツの最後は、城楼から身を投げ死亡した、清兵から辱めをうけた後に自死した、など諸説ある。
金門島に移っていた成功が駆けつけた時には、すでに母は遺体となっていた。成功の悲憤痛恨は凄まじかった。母を弔った後、南安の孔子廟で儒服を焼き軍服に着替え、「政治・官僚の道から脱却し、清との闘いに身を投じる覚悟」を天に向かって示した。
成功はこの時、自軍の船に「殺父報国」の軍旗(スローガン)を掲げたと言われているが、儒教的観点から「救父報国」の誤りだという指摘が多い。真実は不明だが、後年の成功の苛烈な言動・激しい性格を顧みれば、母や隆武帝の死因を作った父を恨んでいたとしても不思議ではないだろう。