反清復明のはじまり

反清復明活動を開始した鄭成功は、1646年末、金門島から南澳島にわたり300人の兵を集めた。

1647年1月、成功は金門で太祖洪武帝を祀り、「誓師の檄文」を発した。これより本格的に軍事活動が開始された。先ずは海澄、続いて泉州の攻略を試みるも、いずれも失敗している。なおこの頃、施郎、甘輝、盧若騰らが成功の配下に加わっている。

5月、鼓浪嶼(厦門沖の小島)に本拠を移し、兵の訓練に努めた。

1648年春、同安を攻撃・占領するも、同年秋に清軍の陳錦に奪い返される。

1649年春、鄭成功は銅山で兵を集め、柯宸枢らに命じて漳浦・雲霄・詔安を攻撃させた。成功自身は、土賊や海賊が横行していた湖陽・掲陽を平定した。

永暦帝擁立

一方、肇慶(広東省)で1646年12月、崇禎帝の従弟に当たる朱由榔が「永暦帝」として即位し、南明政権を立ち上げていた。

隆武帝が亡くなり、いち地方軍閥と化していた当時の鄭成功は、1648年末、永暦帝の即位を耳にし、臣従を請う使者を送った。これに対して1649年春、永暦帝は成功を威遠公に封じた。これより鄭成功は形式上、永暦帝の臣下となり、後々まで永暦の年号を用いて活動を続けていくこととなる。

鄭聯暗殺

精力的に反清活動を続ける成功だったが、本拠の鼓浪嶼は周囲わずか4km程の小さな島であり、養える兵も限られていた。このままでは、いつまで経っても明の復興など望めない。そこで成功は、従兄の鄭彩と鄭聯(共に芝龍の弟・芝虎の息子)が管轄する厦門を襲撃することを決意する。

芝龍の去った今、鄭家の頭領となった成功であったが、一族の中には若い成功に非協力的な者も多く、その筆頭が鄭彩・鄭聯であった。ふたりは父である鄭芝虎が管轄していた厦門を引き継ぎ、一族内で最大の兵力を擁していた。

1650年秋、成功は鄭聯を殺害(暗殺)する。この一件で成功は、周囲から冷酷非情と誹りを受けることとなる。鄭彩は海上に逃亡したが、後に成功に身を寄せている。

こうして厦門の統治権及び、兵権を成功が握るに至った。これより厦門島は、長きに渡り鄭成功の本拠地となる。

厦門の陥落と奪回

1650年11月、成功は李定国(永暦帝政権の中心人物)の出兵要請に応じて軍を南下させた。

1651年1月、広東省の南澳に到達。厦門の守りに不安があったのか、この頃、鄭鴻逵・施郎らを厦門に引き返させている。2月には白沙湖で暴風雨に遭遇し、大きな被害を出した。そして3月に大星所に至った際、突如厦門陥落の報せが入った。成功はこのまま軍を進めるつもりであったが、家族を心配する将兵を御しきれず、泣く泣く軍を返した。

一方、清の福建巡撫・張学聖は、配下の馬徳功に命じて、成功不在の厦門を奇襲させた。この際、成功夫人・董氏は成功の母・マツの位牌と長男の鄭経だけを連れて急ぎ金門に非難したという。

清軍の馬徳功は、引き返してきた鄭鴻逵・施郎に包囲されたが、旧知であった黄氏(鄭芝龍の母)に助けを求めた。これによって、鴻逵は攻撃の手を緩め、馬徳功の撤退を見過ごした。

鄭成功が厦門に戻った時には清軍は撤退した後であった。成功は叔父・鄭芝莞を敗戦の責任を取らせて斬首した。また、馬徳功を見過ごした鄭鴻逵の兵権を没収した。この際、鄭鴻逵は自身の管轄する金門島の自治権を成功に委ねて隠居している。

期せずしてこの時、成功は鄭家の持つ全兵権を一手に握ることとなり、当時彼の元には6万人の兵が集っていた。