清軍の攻勢

1660年4月、厦門に撤退した国姓爺に追い打ちをかけるが如く、清将スダと李卒泰の軍が大挙襲来した。此度の戦は鄭軍得意の水上戦であり、折しも暴風雨が重なったこともあり、水戦に不慣れな清軍は惨敗を喫し、撤退した。

この際、国姓爺はスダに婦人用の衣服を送り、「男なら決戦に応じよ」と挑発したという。『三国志演義』で諸葛亮が司馬懿を挑発した古事に倣ったのである。この後、スダは敗戦の責から自害してしまう。

降将・黄梧の献策

スダと李卒泰の敗戦を受けて、鄭軍から清に降っていた黄梧は清朝に対して「平海五策」を進言。内容は以下の通りである。

  • 海浜に兵を置き、鄭軍の登岸を防ぐ
  • 小船を作って厦門攻略をはかる
  • 鄭軍の財産を没収して、親族を誅する
  • 鄭軍の行う貿易・商売を根絶し、厦門と金門を孤立させる
  • 鄭氏祖先の墓を暴き、敗軍の恥を晴らす

これらの案はいずれも実行に移された。

また、福建・広東の役人には鄭軍に通じている者も多かったが、それを知っていた黄梧は、そうした者をことごとく捕らえて殺してしまった。これにより、鄭軍は清軍に関する情報入手が著しく困難となった。

さらには、自らと同じく鄭軍から投降していた靖南王・耿継茂(後に三藩の乱に参加する耿精忠の父)を福建都督に推薦し、採用されている。

これらの政策は国姓爺を多いに苦しめ、彼に台湾進攻を決意させる要因の一つとなったことは間違いない。

台湾進出を諮る

1660年6月、国姓爺は幹部を集め、自身の台湾進攻の考えを明かし、諸将の見解を聞いた。

すると呉豪が、オランダの要塞を攻め落とすのは困難・風水上好ましい土地ではない・疫病が多い・港が浅く、大船の進行が困難などの点から、反対意見を述べた。

この際の国姓爺は、自らの意見を抑え、台湾進出は一旦見送ることとした。

何斌再来

1661年1月、かつてオランダ台湾長官の使者として国姓爺の元を訪れた何斌が、再び現れた。何斌はオランダ東インド会社の公金を横領していたことが露見し、資産を剥奪されて国姓爺を頼って来たのであった。

何斌は国姓爺に対して「台湾の沃野は数千里、まさに覇王の地。もしこの地を得ればその国雄なるべし。人をして耕しめればその食足るべし。上に至れば鶏籠、淡水に硫黄あり。かつ大海横絶し、外国に通じ、船を備えて売買を興せば、帆柱、舵、銅、鉄欠乏せず。兵士と家族を移せば十年にして集落を生じ、また十年にして教え育つ。国は富むべく、兵は強かるべく、進んで攻め、引いて守れば、まさに中国と均衡するに足らん」と語った。

さらにこの時、何斌は詳細な台湾の地図を国姓爺に献上したと言われている。その地図にはオランダ要塞周辺の水深も記載されており、大船の進行が不可能と見られていた箇所(鹿耳門)も、1年で限られた日の満潮時のみ進行可能であることが判明した。

この何斌との会見を経て、国姓爺の迷いは晴れ、台湾進出の決意が固まったに違いない。

再度の協議

台湾進出の意を固めた国姓爺は、再度諸将を集めて協議を行った。前回と同じく呉豪は反対意見を述べたが、馬信・楊朝棟は賛成を示した。さらに陳永華は国姓爺の判断に委ねると表明し、ここに台湾進出決定の断が下された。