生1621年~没1696年
福建省晋江県で生まれる。字は尊侯。元の名は「施郎」
鄭氏政権所属時代
1646年、鄭成功が「反清復明」の兵を挙げると、これに従った。
1651年、永暦帝の要請に応じ南征中であった鄭成功の軍に同行していた施郎であったが、留守になった厦門に泉州提督・馬徳功率いる清軍が攻め込んできた。施郎、鄭鴻逵らが急遽軍を引き返し、清軍の退路を遮断したが、馬徳功は元芝龍の部下だった縁から平国太夫人(鄭芝豹の母、芝龍の義母)に助けを求めた。その結果、鄭鴻逵は軍を緩め、馬徳功はまんまと逃げ延びることができた。これにより、鴻逵は兵権を失い、金門島の白沙に追放されたが、施郎は厦門奪還の功により銀200両を賜っている。
施郎は軍略に関して非凡な才能を持っていたが、我の強い性格だった様であり、鄭成功と折り合いが悪かった。施郎はある時、罪人の曾徳という人物を、鄭成功の意向を無視して処刑してしまう。これに対し成功は激怒するが、施郎は難を避けて逃走し、その後、清に帰順する。
この頃、施郎の父・施大宣と弟・施顕は成功に処刑されてしまうが、事が施郎の清への帰順前か後かで事件の印象が大きく変わってくる。詳しい時期は不明だが、著者個人的には、帰順後である可能性が高いと考える。帰順前に施郎の家族を処刑する動機の説明がつかないからである。施郎の脱走及び清帰順に対する報復措置と考えたほうが自然ではないだろうか。事の是非はさておき、一連の事件から、施郎は鄭成功を不俱戴天の仇とみなしていた事は想像がつく。
清朝所属時代
清に帰順してしばらくは目立たない存在であったが、1656年に黄梧の推薦で同安城の副将に抜擢される。この頃名の「郎」を「琅」と改める(以下、施琅と記す)。
1681年、福建水師提督の任についた施琅は、台湾(鄭氏政権)に対し、一貫して武力行使を主張する。これは上司である福建総督・姚啓聖の唱える和平交渉を是とする主張とは真逆の方針であった。当時共に60歳前後であった老将2人は、お互い譲らない主張を繰り返したが、やがては施琅の唱える武力行使へと方針は定まっていく。
1683年、施琅率いる清軍と、劉国軒率いる鄭軍の海戦が澎湖諸島沖で勃発した。結果は施琅側の圧勝であり、清軍は澎湖諸島の占領を達成する。進退窮まった鄭克塽は降伏を決意。同年8月13日、施琅は台湾入りを果たし、鄭氏政権は終焉を迎える。後に台湾島内を視察して回った際、鄭成功廟で涙を流し哀悼を捧げた。
施琅の台湾占領後、清朝内では、台湾を統治するか放棄するかで意見が割れていた。これに対して島内を視察した施琅は、台湾が豊かな土壌と物産に恵まれている点を指摘すると同時に、敵対勢力の拠点になる恐れがあること、オランダが再占領を企んでいることを挙げ、直接統治の必要性を訴えた。この施琅の主張はほぼ容れられ、中華王朝史上初めて台湾が行政区に組み入れられることとなる。
康熙帝による評価
康熙帝はある日、福建視察から戻ってきた内閣学士・席柱に対して、施琅についての感想を訊ねた。すると席柱は「優れた人材であり、用兵も優れている。しかし勝利した後は、何事においても威張りたがるところがある」と答えた。これに対して帝は、「この人は粗暴で愚鈍な武人であり、学問を知らず、度量が浅く偏っているため、功を頼みに勝手振舞う人間になってしまう。どうしようもないことだ」と語った。
辛辣極まりないが、的を得た評価であると思える。実際に天才的な軍略家であったが、傲慢不遜な言動が多々見受けられるのも事実である。