1630年9月、田川福松(後の鄭成功)は、父・鄭芝龍に招かれ、7歳で明に渡った。芝龍の本拠地・福建省泉州府南安県安平鎮に居住し、中国名として「鄭森」と名乗った。
芝龍は一族繁栄のため、鄭森を科挙に合格させ、国家に仕えさせようとした。この後の鄭森は、明朝に仕える為の試験・科挙の合格を目指し、勉学に励む日々を過ごすこととなる。
1638年、15歳の鄭森は科挙の第一関門を突破し、南安県の生員になった。
1641年、妻・董氏を娶る。
1642年10月、長男・鄭経が誕生。
1644年、南京太学に入り、高名な学者・銭謙益の門下生となる。この際、師から「大木」の字をつけられている。鄭森は、当時としては最高の環境で勉学に励んでいた。