生1629年~没1693年

福建省長汀県出身。鄭成功・鄭経・鄭克塽の鄭氏三代に仕えた軍人。間諜(スパイ)の利用に長けていたことから「劉怪子」という異名を持っていた。

福建省西部から台湾に渡った、最初の客家人と考えられている。

鄭成功軍所属以前

1646年、漳州で清軍に加入。軍人としてのキャリアをスタートさせる。当初は一警備員であったが、後に北門警備の責任者となる。

1654年、鄭成功は漳州に進攻。この際、劉国軒は門を開いて鄭成功に降っている。劉国軒はかねてより、鄭成功の忠義を慕っていたと言われている。

鄭成功時代の活躍

南京攻略戦では右虎衛鎮(鄭成功の直轄軍の一つ)の副将を務めた。

1661年、鄭成功は台湾に進攻。劉国軒は先鋒としてオランダ兵と戦った。

鄭経時代の活躍

鄭成功死後、劉国軒は台湾の警備、とくに土着民の反乱鎮圧などの任に当たっていた。

1673年、三藩の乱が勃発。

翌1674年、耿精忠の動きに呼応して、鄭経は大陸沿海に進攻。この際劉国軒は、軍を率いて同安・海澄を攻略。その後も福建省の泉州・漳州・漳浦、広東省の潮州を攻略するが、鄭経と耿精忠の足並みが揃わず、対立してしまう。占領した土地は、清軍・耿精忠・尚之孝(尚可喜の次子)との間で争奪が繰り返される事となる。

今回の遠征時、最大で七郡もの領地を獲得した鄭経であったが、反乱軍(三藩+鄭経)側の足並みが今一つ揃わず、戦況は徐々に清軍に傾いていく。

1677年、広東恵州に進出していた劉国軒は、戦況の悪化により、厦門に撤収。これによって鄭経は、大陸における拠点を全て失う結果となった。

1678年、鄭経は最後の戦いに臨んだ。劉国軒を厦門で中提督(水・陸軍提督)に任命し、尚方剣(皇帝に代わり、軍権を持つ証)を与え、失地回復の大任を託した。劉国軒は期待に応え、3月に平和・漳平、6月に海澄・長泰・同安・南安・恵安、7月に永春・徳化・安渓の計10県を占領した。

同8月、清軍の姚啓聖らが反撃を始め、一ヶ月後には海澄を除く9県が清軍に奪還されてしまう。

その後、一旦戦端は膠着するが、1680年1月、清軍のスパイ、施明良・施世沢らによる鄭経誘拐未遂事件が発生。遊び仲間として鄭経に近づいた施明良・施世沢は、巡視の名目で鄭経を海上に誘い出す。この時、不審に感じた劉国軒が追跡して連れ戻し、事なきを得ている。

1680年2月、姚啓聖が厦門・金門を攻撃。この時大陸側に残されていた唯一の拠点・海澄にいた劉国軒は、戦況不利と判断。海澄を放棄し、厦門に撤収する。

鄭経も事態の挽回は困難と判断し、台湾に撤収することを決定。三藩の乱に端を発する鄭と清の戦いは、一段落を迎えることとなる。

鄭経の死と鄭克の即位

1681年1月、台湾に撤収した鄭経は、病を得て亡くなった。死に際して、劉国軒と馮錫範に監国(天子不在の間、政治を行う皇太子)である鄭克𡒉の補死を命じている。

ところが、馮錫範は先の遺言に反し、鄭経の次子・鄭克を擁立し、権力を握ろうとする動きに出た。この際、馮錫範から相談を受けた劉国軒は、「鄭氏一族の問題であり、第三者が介入することではない」と自らは積極的に関わらない姿勢を示した。

更に馮錫範は董太夫人(鄭成功の正妻・鄭経の生母)にも同調圧力をかける。董太夫人は劉国軒に相談したが、劉は病と称して面会せず、「重要なことがあれば、馮錫範・鄭聡(鄭経の弟・鄭克𡒉の叔父)の二人と相談して決めればよい」と回答した。

その後、鄭聡らによって鄭克𡒉は謀殺され、1681年2月、鄭克が鄭経の後継として即位する。

鄭克時代の活躍

鄭克の統治時代に入り、劉国軒は武平侯(功臣としての爵位)と中提督(水・陸軍提督)を兼任し、名実ともに政権トップの権力者になっていった。また清朝は、和平等の交渉を、直接劉国軒に対して行うようになっていく。

1682年、劉国軒は講和を図る清の使者に対して、講和を受け入れる用意があること、講和賛成派の辮髪及び渡海の容認、講和反対派に対する辮髪免除の要求、通商貿易に関する協議をするための高官の派遣の希望、などを伝えている。

1683年1月、鄭克は清軍に対して使者・林珩を派遣した。この際林は劉国軒から、清軍の船隻の情況を探る任務を与えられている。1月25日、林は福建水師提督・施琅に会見を申し込むが、主戦派の施琅には断られてしまう。その後2月8日には、福建総督・姚啓聖との会見が実現している。

1683年6月、清軍の水師提督総兵官・施琅は台湾平定のため、船隊を進発させた。対する鄭軍側は、劉国軒が澎湖本島で清軍を迎え撃った。戦いは澎湖諸島沿海で行われ、結果は清軍の圧勝であった。劉国軒は敗色濃厚と見ると、台湾へと撤退した。

澎湖から戻った劉国軒は、鄭克に対し敗戦の報告を行った。これを受け、鄭氏政権は清軍に対して降伏か抗戦か、意見が割れることとなった。劉国軒は、清軍から降伏後の官職を保証されていたこともあり、降伏推進派であった。

1683年閏6月、鄭克は劉国軒の進言を入れ、清軍に降伏文を送った。同8月、施琅が台湾に上陸。鄭氏政権終焉の瞬間であった。

鄭氏政権滅亡後の活躍

1684年、劉国軒は、清朝より天津総兵に任じられる。その後は水利事業を行い、田植えを推進したとされる。

1693年、64歳で死去。