前半生

1618年、福建省漳州で生まれる。

李自成が北京を占領した1644年、黄梧は福建漳州・平和県の下級役員であった。

1651年6月、黄梧は清から鄭成功軍に投降。中権鎮副将に任命される。

1656年1月、清の平南王・尚可喜が広東に侵攻。対する左先鋒の蘇茂・黄梧は敵を軽視して敗北。黄梧は甲冑500領の製作費の支払いと、海澄の守将への左遷を命じられる。6月、恨みに感じた黄梧は清軍に投降、海澄公に封じられる。これによって清軍は、難なく海澄を手に入れた。またこの頃、同じく元鄭成功配下で先に清に降っていた施郎を「水軍について熟知しているので重用すべし」として推薦している。

1657年、鄭成功軍は、南京攻略の前哨戦として、浙江・福建各地に進軍した。これに対し清の福建総督・李卒泰は、黄梧を副将として、鄭成功の根拠地を攻めようとした。だが直前になって李卒泰は黄梧を疑い、兵の統率権を剥奪(部隊の解体)してしまった。この時に黄梧は清に降ったことを後悔し、鄭軍に再帰順を願い入れるも、聞き届けられなかったという。

平海五策・遷界令

南京攻略に失敗し、厦門に戻っていた鄭成功であったが、1660年、清の海軍提督スダと李卒泰の進軍を散々に打ち破っていた。これに対し、黄梧は「平海五策」を進言。内容は以下の通りである。

  • 海浜に兵を置き、鄭軍の登岸を防ぐ
  • 小船を作って厦門攻略をはかる
  • 鄭軍の財産を没収して、親族を誅する
  • 鄭軍の行う貿易・商売を根絶し、厦門と金門を孤立させる
  • 鄭氏祖先の墓を暴き、敗軍の恥を晴らす

さらに付帯事項として「遷界令」を献策。これらはいずれも実行に移された。

また、福建・広東の役人には鄭軍に通じている者も多かったが、それを知っていた黄梧は、そうした者をことごとく捕らえて殺してしまった。これにより、鄭軍は情報入手が著しく困難となった。

さらには、自らと同じく鄭軍から投降していた靖南王・耿継茂(後に三藩の乱に参加する耿精忠の父)を福建都督に推薦し、実行されている。

これらの政策は国姓爺を多いに苦しめ、彼に台湾進攻を決意させる要因の一つとなったことは間違いない。

鄭経時代以降

1664年、鄭成功の後を継いだ鄭経が厦門・銅山を捨てて台湾に移った後も、黄梧は手を緩めない。なおも、鄭軍に対する帰順勧告と諜報活動を活発化するべきとの上疏を行った。黄梧は1667年、功績を認められ、一等公に進み、十二次世襲を許される特典を受けた。

1674年3月、耿精忠は清に対して反乱(三藩の乱)を起こし、黄梧に招降を促した。この時黄梧は病床にあり、対応を子の黄芳度に託し、まもなく死去した。

1675年10月、鄭経は三藩の乱に乗じて漳州(黄梧一族の居城)に攻め込み、占領した。この際鄭軍は、黄梧の棺を掘り起こし、遺体を斬りつけた。また鄭経は、黄梧の書斎を妾の居室とし、復讐を果たしたという。