概要

生年不明。福建省海澄県出身で、国姓爺配下の将軍。芝龍時代以前の経歴がはっきりしていない為、小説等創作物では独自設定を盛られがちである。

最終的な階級は中提督であり、これは水陸提督(水軍及び陸軍の元帥)を指す為、軍中に於いて国姓爺に次ぐ実質的ナンバー2の存在であると言える。

現在、中国と台湾の鄭成功廟には、国姓爺麾下一番の将軍として、彼の彫像が祀られている。

経歴

1647年8月、鄭成功が叔父の鄭鴻逵と共に泉州の桃花山攻撃の際、従軍。

1650年、右衛鎮(陸軍の将軍職)に就任。

1652年2月、甘輝は長泰城を攻略すべく北渓まで進軍。この際、兵力を温存して決着をつける為、長泰城副将の王進と一騎討ちを行うが、結果は互角であった。この後戦闘は長びいたが、国姓爺本隊の増援もあり、長泰城は落城した。続く3月、国姓爺軍は漳州に進軍。甘輝は長泰・江東橋で清軍総督の陳錦に勝利し、4月に漳州城を包囲した。この包囲戦は半年に及び、城内は人相食み、死者70万を出したという。しかし9月に清の援軍が到着した為、鄭軍は撤兵した。この戦いは両軍共におびただしい被害を出し、得る所はほとんど無かった。鄭成功は引き揚げてきた部将に対し、敗退の罪を問い、全員を斬ると通告した。驚いた甘輝が、原因は自然条件の欠失による、と釈明したので、ようやく落ち着きを取り戻したという。

1653年、清の将軍金礪が海澄城に攻めてきた。何とかこれを撃退した国姓爺は、この度の戦いで戦功著しかった甘輝に対し、自身が隆武帝より下賜された招討大将軍の印綬を与えようとしたが、甘輝はこれを固辞した。同年、鄭成功は永暦帝から延平郡王に封じられた。この際、功績の高い部将も伯に封じられ、甘輝は崇明伯となった。

1655年の年頭、甘輝は仙遊(福建省)に侵攻。知県の陳有虞は頑強に抵抗したが、神器鎮の洪善が提案した、火薬樽を城内に転がせる戦法により勝利を得た。5月、清軍3万の兵が福建に侵攻。これに対し鄭軍は漳州に兵を集結させた。また、後方攪乱、及びゲリラ効果を狙って7月に甘輝・王秀奇が長江攻略を目指し北上した。この甘輝率いる北征軍は舟山の攻略に成功し、浙江進出の足場を確保する事ができた。

1656年12月、国姓爺は甘輝に命じて温台・連江・羅源・寧徳・舟山などを奪取させた。これに対して清軍は猛将メイチャン・アクシャンを派遣した。この時のアクシャンの軍は重装備兵であり、正面衝突を避けた甘輝は、撤退を繰り返した。追跡するアクシャンの軍が、重装備故に疲労の極みに達した時、甘輝は攻勢をかけ、アクシャンを討ち取ることに成功した。

南京攻略戦

1658年正月、鄭成功は会議を開き、北伐(南京攻略)について話し合った。その席で甘輝は「南京は距離も遠く、堅固な城です。攻略の為には少なくとも数十万の兵力と莫大な軍艦及び物資が必要です。加えて不在中に後方を攻められる恐れもあります。今は福建、浙江の基盤を固め、その後に南京を攻めても遅くはないと存じます」と持論を述べた。しかしこの意見は容れられず、同年5月、鄭成功は北伐を開始する。

甘輝は第一軍として、兵1万、大型艦20隻、小型艦30艦を率いて出発した。この甘輝軍の中には、鉄人部隊5千も含まれていたという。この遠征では、羊山停泊中に遭遇した台風よって甚大な被害が出た為、一旦舟山に引き返して、体勢を立て直す事になる。

1659年4月、鄭成功は改めて北伐を再開した。長江を遡った鄭軍は6月、南京攻略に先がけて、瓜州への攻撃を行なった。この戦いは鄭軍の圧勝に終わり、この後の会議にて甘輝ら諸将は「軽々しく進軍してはなりません。この地方の基盤を固め、人心を得ることが先決。その上で使者を永暦帝に派遣し、李定国に援軍を請いましょう」と進言した。だが鄭成功はこの進言を退け、直ちに次の攻撃目標・鎮江にむけて進軍した。

鎮江の戦いでは周全斌の活躍もあり、またしても鄭軍の完勝に終わった。戦後、またしても甘輝は国姓爺に進言する。「瓜州・鎮江を固守すれば清軍の援軍を阻止できますし、兵を分けて近隣を平定すれば江蘇・浙江の交通を遮断できます。そうなれば南京は手足を断たれたに等しく、自ら降って参りましょう。急攻めは不要です」   この主張に同意見の部将も多かったが、国姓爺の定めた対南京方針は速戦攻略であった。

続いて南京への進路を、水陸どちらにするかが問題となった。甘輝は陸路を主張。沿道の州県を落としながら進み、南京を孤立させる意見を述べた。しかし協議を重ねた結果、結局水路を行くことになった。

7月、ついに南京に到着した国姓爺軍は、すぐさま攻撃の布陣を敷いた。ところがこの時、清軍から使者が訪れ、「清軍では、30日間城を守りきれば、その後落城しても妻子に罪は及ばないことになっています。30日間、攻撃を待っていただきたい」と申し入れた。これは清軍の策略であったのだが、国姓爺はまんまと乗せられてしまった。ここまでは慎重案を唱えることが多かった甘輝だったが、この度は速戦攻略を強く主張した。しかしまたしても、国姓爺に聞き入れられることはなかったのである。

今回の北伐(南京攻略)において、軍のナンバー2である甘輝と鄭成功の意見はことごとく食い違っている。甘輝だけでなく、過去に於いては施琅や張名振など、実績・実力共にトップクラスの部将との関係がギクシャクしてしまうことが、鄭成功には少なくなかった。一概に論じる事はできないが、人を使うという点に於いて、鄭成功の柔軟性の無さが見え隠れしている様に思われる。

この後、攻撃を遅らせたことで油断が生じた鄭軍に対し、清軍は奇襲を敢行。総崩れになった鄭軍は観音山に退却するも、追撃して来た清軍と戦い捕えられてしまう。その後南京に送られた甘輝は、降伏を拒んで斬られてしまう。

『国性爺合戦』での活躍

和藤内(鄭成功)の異母姉、錦祥女の夫。獅子ヶ城(韃靼の領地)の城主。

明を乗っ取った韃靼を打倒する為、日本からやって来た和藤内は、錦祥女を通して甘輝に助力を願い入れた。力になりたいと考える甘輝だったが、私情を優先することに対する世間体の悪さ(妻のために寝返ったと言われては恥になる)から一旦は拒否する。だが夫の憂いを断つため、錦祥女は自害してしまう。これを受け甘輝は、和藤内と共に打倒韃靼を決意するに至る。

その後、甘輝は和藤内、呉三桂と共に韃靼と戦い、ついには南京城を攻め落とし、明の復興を果たす。