生1621年ー没1662年 字は寧宇

鄭成功と同時期に、中国南西部で抗清復明活動を行った人物。鄭成功と同世代であり、没年も同じである。日本での知名度は低いが、中国では岳飛や鄭成功と同じく、民族英雄とされる人物である。

幼少期

1621年、陝西省楡林の農家に生まれる。

1627年から28年にかけて、陝西省で干害が起こり、民衆は飢饉に見舞われた。更には当時の政治は宦官の影響や対外戦争で非常に混乱しており、李定国の幼少期の生活はとても豊かと言えるものではなかったに違いない。

1630年、李定国は10歳の時、張献忠の率いる農民反乱軍に身を投じた。張献忠は李定国の非凡な容姿を気に入り、自身の養子にしている。この時の陝西省の民衆を取り巻く環境は、飢え死にするか、反乱軍に加わるかのどちらかしか生きる術がない程の情況であったと言われている。

容姿・気質

張献忠の養子となり、各地を転戦していた李定国であったが、青年時代の彼の容姿・気質についての記述は概ね非凡かつ英雄然としたものが目立つ。

身長8尺・太い眉・立派な体躯を持ち、誰に対しても礼儀正しい。学者気質であり、兵法にも通じている。並外れた勇猛・勇敢さから、味方から「万人敵」と呼ばれた。また、優しい性格であり、無益な殺生はしなかった。

張献忠から、その文武の才を愛されていたという。

張献忠配下時代の活躍

1641年2月、張献忠軍は襄陽に進軍。この際、李定国は騎兵20騎と共に明軍に変装し襄陽に侵入。夜中、城内に火を放った。火災を目の当たりにした襄陽の民衆は、反乱軍が大量に侵入したと勘違いし、大混乱に陥った。その後、張献忠軍の本隊が到着し、難なく襄陽を制圧する事に成功した。

1644年、四川・成都を制圧した張献忠は、「大西」政権を樹立し、皇帝を自称した。この際、李定国は安西将軍に任命され、孫可望・劉文秀・艾能奇らとともに四将軍と称された。

張献忠は成都制圧後、明の将兵を殺害していったが、李定国は涙を流して、これを諫めた。だがそんな思いも空しく、張献忠は民衆までも次々と手にかけ、街から人けが無くなってしまったという。

1645年、張献忠軍の劉延は重慶を守備していた。その際、明軍(この時北京は清に占領されているので、四川に残っていた明の残軍)の曽英に攻撃・占領されてしまう。これに対し、張献忠は李定国・劉文秀らに兵3万を与えて救援に向かわせた。李定国らは重慶に攻撃を仕掛けたが、曽英は騎兵を迂回させ、張献忠軍の本陣を奇襲した。結果的に李定国らは敗走。重慶の奪還は失敗に終わった。

1646年、四川での統治が行き詰った張献忠は、自身の故郷である陝西省へ移る為、北上し清軍と戦った。この際、ホーゲ率いる清軍との戦闘で、張献忠は命を落とす。この後、残された李定国・孫可望ら四将軍は、南に撤退して貴州・雲南を拠点に活動していく事となる。

抗清復明

1647年、李定国・孫可望・劉文秀・艾能奇の四将軍は残った兵を率いて貴州に進軍し、その地で今後の方針について話し合った。孫可望は、いざという時海上に避難できることを理由に、広東への移動を主張。それに対して李定国は、雲南に本拠を置き、南明政権及び明復興の支援を行うことを主張した。

上記の李定国の主張には、少なからず生前の張献忠の意思が反映されていたと思われる。張献忠は、清軍の山海関突破後、明朝に対する態度を変化させていた。1646年の清軍との戦いの前には、それまでの明に対する反乱指導者の立場から一転、「明朝は中華の正統であり、自分の死後は明に従わなければならない」と部下に語っていた。実際に李定国は、大西軍の衰退を受けて、明への反乱を悔やみ、帰順を願っていたという。

李定国は孫可望の主張に対して、「海上への亡命は命取りであり、それならばこの場で死んだほうが良い」と語り、剣を抜いて自殺の準備を始めた。これを見た他の将軍は、急いで剣を奪い、一様に李定国への賛同をあらわした。

結果的に李定国の主張が通る形となり、孫可望をリーダーとして、抗清復明活動が始まることとなる。だが、この時の二人の方針の違いが、後々まで続く確執の原因となってしまう。

雲南省占領

1647年4月、抗清復明の決意を固めた李定国等は、雲南に進軍する。当時の雲南省では阿見県の首長・沙定州が反乱を起こし、明の統治機能は失われていた。そこに反乱平定の名目で進軍した李定国等四将軍は、民衆から迎えられて省都の昆明に入り、「明に忠義を尽くし、帝国の天下を復興する」旨の宣言をしている。この際、反乱首謀者の沙定州は南へ逃亡している。

1647年8月、孫可望・李定国等四将軍は、それぞれ王を自称。李定国は安西王を名乗った。

当時、四将軍の中で最も多くの兵を率いていたのは李定国であった。これに対し孫可望は、勢力内における自身の権威拡大の機会を窺っていた。1648年4月、孫可望は軍議の場に於いて、先に到着した李定国がリーダーに代わって軍旗を掲げたことを名目に、衆目の前で50回の杖罰を与えた。李定国は二心のない事を主張したが、軍全体の秩序と存続を考慮し、甘んじて杖罰を受けた。その後李定国は、沙定州の討伐をもって罪を贖うことを求め、聞き入れられる。

1648年8月、李定国と劉文秀が沙定州を捕らえ、雲南一帯の平定は完了した。

永暦帝擁立

1649年4月、孫可望は永暦帝に対して、共同して清軍に対抗する事と同時に、自身を「秦王」に封じる事を要請した。だが、この要望は永暦帝側に拒否されてしまう。

これを受けて孫可望は1650年8月、自ら「秦王」を名乗り、雲南省の名称を雲興省に変更、新たな貨幣を鋳造する等、独立への野心を露わし始めた。李定国は孫可望の動行に不満を持っていたが、「抗清復明」の実現の為、公には沈黙の態度をとっていた。

1650年9月、孫可望は貴州に進軍し、李定国は安順を攻略した。貴州はすぐに平定され、李定国は雲南に戻って軍備強化に務めた。

当時、永暦帝政権は清軍の侵攻を受け梧州から南寧、さらには節屯へと逃亡を繰り返していた。そのような状況の1652年1月、孫可望は使者を送り、貴州の安隆に永暦帝を迎えることとなった。これを機に、正式に孫可望・李定国等による永暦帝の擁立体制が始まった。

湖南・広西の戦い(李定国VS孔佑徳)

1652年、清軍は李定国等を擁する永暦政権に対し、軍事行動を開始。呉三桂に四川南部、孔佑徳に貴州への攻撃を命じた。これに対し永暦政権側は、劉文秀が呉三桂、李定国が孔佑徳に対処すべく進発した。

3月、李定国は8万の兵を率いて進発。軍中には象兵もいたとされている。出発に際し、殺人・姦淫・財産強盗・牛屠殺・放火の禁止を定め、軍の規律を引き締めた。

5月、李定国は可源県・京県・武剛県を攻略。宝慶に於いては、迅速な渡河及び行軍により、清の援軍・孔佑徳が到着する前に5千の清軍を壊滅させた。

6月、李定国は泉州・塩官(興安県塩官郷)を占領。これによって桂林への連絡を遮断し、当時桂林にいた孔佑徳を孤立させた。

7月、李定国は桂林を占領。この際、孔佑徳は自決している。なおこの戦いでは、李定国軍の象兵に清軍の馬が怯えてしまったとされている。戦いの後、桂林の七星岩で宴会を開いた李定国は改めて、清軍に奪われた土地を取り戻し、明を復興させる決意を表明した。

8月、李定国は徐天佑を桂林の守備に起用。軍を北に向けて永州を占領した。

9月、李定国は恆州・長沙を占領。これにより、永暦政権は湖南省全域の占領を達成した。李定国は、湖南省恆州で兵を休ませ、次なる北進に向けて軍の再編成を行った。

また同時に、李定国は広西省各地に配下の軍を派遣した。馬宝が陽山・蓮州を占領。馬晋忠と馮双麗が常徳・越州を占領。高文貴が永信・安府・永寧・龍泉を占領した。これにより、李定国軍は此度の遠征において、湖南省・広西省の2省16県を清軍から取り戻した。

李定国の軍は戦闘能力が優れていただけでなく、規律も非常に高かった。明代の老人、李吉は「李定国の軍規は非常に厳しい。半年間、兵士が駐留していたが、住民は兵士がいることを知らなかった」と述べている。

恆州の戦い(李定国VSニカン)

度重なる敗北を受け、清朝は湖北・湖南・広東・広西・雲南・貴州の総督に洪承疇を任命。更にはヌルハチの孫・ニカンが15万の兵と共に長沙に派遣された。ニカンは1646年の張献忠軍とホーゲ軍の戦いに於いて、ホーゲの下で戦い、張献忠を討ち取っており、李定国にとっては養父の仇であった。

1652年11月、ニカン軍は恆州に到着した。李定国は強力な敵(ニカン軍)に対し、待ち伏せを行い、退却に見せかけて包囲する作戦を試みた。白高市に馮双麗と馬晋忠を待機させ、ニカンが衡山を通過する際、伏兵をもって包囲する作戦である。包囲は成功し、ニカンは李定国によって討たれた。作戦は成功したかに見えた。

だが、馮双麗と馬晋忠の姿が見えない事に気付いた李定国が調べてみると、馮双麗と孫可望の内通が発覚した。李定国の功績を妬む孫可望によって、待ち伏せ作戦撤退の密命が下され、これを知った馬晋忠も戦場から撤退したのである。二人の撤退により、李定国は残った清軍の追撃を断念せざるを得なかった。

孔佑徳とニカンを相次い破った李定国に対して、清の朝廷と民衆は震撼し、中には「西南諸州を放棄して李定国と和平しよう」という者も現れた。当時の儒学者・黄宗羲は「桂林と恆州の戦いで二人の王(孔佑徳とニカン)は敗れ、世界は衝撃を受けた。このような繁栄は万暦の武呉以来、世界に例がない」と賞賛した。

一方、四川南部に進軍した劉文秀は、1652年10月、宝寧で呉三桂に敗れている。

孫可望との決裂

李定国の名声が高まる中、孫可望の李定国に対する嫉妬・嫌悪の感情は増大していった。

1653年1月、孫可望は、袁州に李定国を呼び出し、機を見て殺害しようと企てた。李定国は袁州に向かったが、その途上、劉文秀の使者が彼の元を訪れ、孫可望の企みを明かした。

孫可望の企みを知った李定国は、「互いに誹謗や佞言に惑わされる事なく、明朝復興の為、協力し合う」旨を請願する手紙を孫可望に送った。だが、訴えは聞き入れられず、孫可望は軍を率いて李定国への攻撃を開始。李定国は争いを避ける為、広西省に退避した。

2月、清朝は、永暦帝政権の内部混乱に乗じて将軍・屯斉を派遣。李定国を追っていた孫可望であったが、宝清で屯斉の軍に遭遇し大敗する。これによって孫可望は東江へ逃亡し、恒州、五港、荊州、郴州、元州、黎平などの州郡が清軍の手に落ちた。また、この機に乗じて清の平南王・尚可喜が梧州と桂林を占領した。

3月、清軍に追われる立場となっていた李定国を、義勇軍の羅金内が広東に招き入れた。その後、広東省の肇慶を包囲した李定国であったが、一ヶ月経過しても攻略できなかった。やがて清の将軍(後の靖南王)・耿継茂の援軍が到着し、李定国は柳州へと撤退した。この時、清の総督・洪承疇は李定国に対して降伏を促す使者を送っているが、黙殺されている。

7月、李定国は広西省・桂林を攻撃したが、成果は挙がらず柳州に撤退。

8月、孫可望は柳州に馮双麗を派遣して、李定国を攻撃した。この際李定国は伏兵を用いて馮双麗を捕獲し、正義を説いて投降させている。

鄭成功との連携

李定国は次第に同盟相手として、同じく「抗清復明」を掲げる鄭成功との連携を深めていく。

1653年6月、李定国は鄭成功に対して、広東省・肇慶への攻撃を促す書簡を送った。だが、この時は鄭成功の進発が遅れ、広東省を二方面から攻める共同作戦は実現しなかった。

1654年、劣勢にあった李定国に好機が訪れる。魯王政権の将軍・張名振が長江を渡って南京を牽制。同時期、鄭成功は崇明島を攻撃する構えを見せていた。

この機に乗じ、3月、李定国は東征省・蓮州と広東省・雷州を占領。5月に広東省・高州を占領した。

6月、李定国は広西省・梧州を攻撃。陥落させることはできなかったが、李定国軍の躍進に乗じて広西省・広東省各地で義勇兵が決起。状況は李定国にとって好転していた。この時、李定国は自身を管仲に比し、「一匡天下(天下はひとつ)」と刻んだ碑文を書いたとされている。

7月、李定国は鄭成功に対し、広東省・新会への共同攻撃を促す書簡を送った。書簡には、10月中旬以前に軍の派遣を請う内容が記され、更には、婚姻による連帯強化の要請も記されていた。これに対して鄭成功は「姪を李定国の子にめあわせたい」と返答した。10月初め、鄭成功は将軍・林蔡を新会に派遣。だが、途中で進軍に手間取り到着が遅れたため、李定国は単独攻撃を余儀なくされた。

10月から始まった李定国の新会攻撃は二か月に及び、自軍の疫病発生や清による偽情報の流布等で、李定国は次第に不利な状況に陥っていった。

12月、清の援軍マジュラ、尚可喜、耿継茂が10万の兵を率いて新会に到着。李定国は清軍の鉄騎兵に敗北し、南寧まで撤退した。

鄭成功との連携が失敗した要因の一つに、鄭成功陣営が前年から清との和平交渉を行っていた事実が挙げられるだろう。結果的に交渉は破綻するが、1653年から1654年にかけて頻繁に使者のやり取りを行っていた手前、大々的に出兵する事は憚れたに違いない。

1654年の一連の戦いの最中、孫可望は貴州に本拠を置いていた。独善的なふるまいは日ごとに増大し、永暦帝はないがしろにされていた。状況を憂慮した永暦帝は、李定国に密書を出し、自身の護衛を命じた。密書を受け取った李定国は、戦いが終わり次第、すぐに向かう旨を返信した。

後日、密書の件を知った孫可望は、永暦帝に仕える大臣18名を処刑。さらに、李定国に対する雲南省と貴州省からの物資援助を打ち切らせた。この事も此度の戦いにおける李定国の敗因のひとつとして考えられる。また孫可望は、新会での戦いに敗れた李定国が永暦帝の元に戻るのを阻止するため、劉正国と関友才を広西省・天州に駐屯させた。

曲靖の戦い(李定国VS孫可望)

1655年、永暦帝は再び李定国に助けを求め、血で書かれた勅書を南寧に届けた。これを見た李定国は、地面に倒れ込んで泣きながら、「裏切り者を根絶し、明を復興させるため、死をも辞さない」と決意を述べた。

1656年2月、李定国は安隆にて永暦帝に再開。協議の結果、朝廷を雲南省・昆明に移すことが決定された。

この頃、孫可望と共に行動していた劉文秀が、李定国の元を訪れ「孫可望は董卓のような人物だと考えているが、たとえ孫可望が死んでも、曹操のような人物が必ず現れるだろう」と、警告を発した。これに対し李定国は、「私は天に誓って、孫可望の真似は決してしない」と語っている。これを境に、劉文秀は李定国と行動を共にすることとなる。

昆明に入った永暦帝は、李定国を晋王、劉文秀を蜀王に任命した。その後李定国は、度々孫可望に対して和平の使者を送ったが、いずれも実を結ぶことはなかった。

1657年9月、孫可望は自ら10万の兵を率いて李定国を攻撃。両軍は雲南省・曲靖で戦った。李定国側の兵は3万程であったが、孫可望側の将軍・白文宣の寝返りもあり、李定国が勝利した。敗れた孫可望は清軍に投降し、1660年11月死去している。

斜陽

孫可望との戦いに勝利した李定国であったが、その後の統治は安定性を欠いていた。

先の戦いで孫可望を追撃した劉文秀は、その際に3万以上の兵を降伏させていた。劉文秀はその兵を再編し、清軍との国境守備の為に訓練を施していた。しかし、劉文秀の兵力の増大を恐れた李定国は、彼を軍と共に昆明に召集した。この李定国の判断は大局的な視点ではなく、権力への固執から来たものだと感じた劉文秀は、不満と落胆から病を得、1658年4月死去してしまう。

また李定国は、兵に対する功績や恩賞の議論の際、元から自身が率いていた兵を「晋兵」、孫可望の指揮下にあった兵を「秦兵」と呼び区別したため、多くの降伏兵が不満を抱いた。

清との決戦

孫可望は清に投降する際、軍事機密の書かれた西南地域の地図を洪承疇に献じていた。清軍はこの情報を頼りに、1658年2月、三路に分かれて軍を進発。呉三桂が四川から、趙布泰が広西から、そして洪承疇が湖南から進軍し、永暦帝政権との決戦に臨んだ。当時、李定国は永昌で王子旗・関友才の反乱を鎮圧中であり、清軍への対応に遅れが生じた。その間、呉三桂が柔特、淳義を占領。趙布泰が貴陽と都山を占領した。

7月、永暦帝は李定国を元帥に任命し、反撃を開始。白文宣を淳義(対呉三桂)に、李成覚を貴陽(対趙布泰)に、馮双麗を中道(対洪承疇)に派遣した。そんな中、洪承疇は李定国に対し、南明への内応を請う偽の手紙を送っていた。手紙の真偽を計りかねた李定国は、出兵のタイミングが遅れ、戦機を逸してしまう。

9月、清朝はヌルハチの孫・ドニを援軍に送った。

11月、ドニは馮双麗を破り、安慶と曲京を占領。呉三桂は白文宣を破り、趙布泰は李成覚を破った。

この知らせを聞いた李定国は、自ら主力3万を率いて趙布泰と戦った。初戦に勝利した李定国だったが、清軍の火計で形勢は逆転。李定国の軍は壊滅し、妻子も趙布泰に捕殺された。

莫盤山の戦い(李定国VS呉三桂)

1658年12月、昆明に撤退した李定国は、今後の方針について永暦帝臣下と協議を行った。李定国は湖南省への東征及び本拠移転を行い、鄭成功と共同で清軍に対抗することを主張した。しかし、永暦帝の臣下のほとんどは雲南省出身で故郷を離れることを望まず、ひとまず雲南省西部へ移転し、緊急時はビルマ(ミャンマー)へ非難することを主張した。この時李定国は、自らの主張に固執せず、多数意見に従った。

食料不足に陥った清軍による、民への略奪を防ぐため、国庫の破壊禁止を指示し、永暦帝政権は西へ避難した。

1659年1月、清軍は昆明に入り、永暦帝を追跡した。

1659年2月、李定国は永暦帝を清軍の追跡から逃すため、永昌の莫盤山で待ち伏せによる奇襲作戦を試みた。敵将は呉三桂。待ち伏せ部隊は三手に分かれて布陣した。しかしこの時、永暦帝の臣下・陸桂生が呉三桂に投降し、待ち伏せの事実を知らせた。急ぎ撤退しようとする呉三桂軍と、奇襲が失敗した李定国軍の間で、やむなく戦闘が始まる。両軍共に多数の死傷者を出したが、清の将軍・ドニと趙布泰が到着したため、李定国は永暦帝を追って撤退した。

ビルマ進攻

一方、永暦帝は永昌からビルマ(ミャンマー)へ避難していたが、李定国との連絡は途絶えていた。そんな中1660年7月、李定国は、永暦帝がビルマ国王に捕らわれていることを知る。

9月、永暦帝救出のため、李定国はビルマへ進攻。

11月、ビルマ軍との戦闘に勝利し、永暦帝の返還を要求したが、ビルマ側は拒否。

1661年2月、再び李定国はビルマへ進攻。戦闘に勝利するも、依然として永暦帝の引き渡しは拒否された。

5月、李定国がビルマ内に建造していた造船所が攻撃を受けた。激怒した李定国はアワ市を包囲するが、兵糧不足と疫病で多数の死者が出たため、やむなく兵を引いた。

8月、三度ビルマに進攻するも敗北。この頃、永暦帝臣下の張国友と趙徳勝が清軍へ投降。李定国の息子は彼らへの攻撃を主張したが、李定国は双方が殺し合うことに耐えられず、撤退した。

英雄の最後

1661年12月、清朝を恐れたビルマ国王が、永暦帝を呉三桂に引き渡した。李定国は激怒し、永暦帝を奪還するために兵を募った。

1662年5月、雲南に4000の兵が集ったが、不幸にもこの時、軍内で疫病が蔓延し、多くの人馬が命を落とした。李定国はこの時、「この戦いが終わったら、二度と民衆に不幸が訪れない事、私(李定国)が孤独にひとりで死ねる事」を天に向けて祈った。

6月、呉三桂が永暦帝を殺害したと報告が入る。間もなく李定国は体調を崩し、27日、雲南省・拉孟にて死去。41歳であった。李定国は死を前にして、息子と部下に「降伏ではなく、荒野で死ぬことを選ぶ」と語った。