生1634年ー没1680年
1634年、福建省同安県で生まれる。字は復甫。鄭成功、鄭経の2代に仕え、政権の中心人物として、様々な政策を行った。
鄭成功軍仕官以前
陳永華の父・陳鼎は福建省同安県で教職に就いていた。その地で1648年、鄭成功軍と清軍の戦争が行われた。鄭軍が同安県に侵攻する形で始まり、一時的に同安城は鄭成功の支配下に置かれた。しかし間もなく、清軍の反撃が始まった。大挙して押し寄せた清軍は同安城を四方から攻撃し、鄭軍から奪還した。この際、城内の民衆は虐殺の憂き目に遭い、陳鼎は明国に殉じて自死したという。この時陳永華は15歳であるが、当時の所在は不明である。
陳永華は科挙を受験し、生員の資格を得ていた。明に対する愛国心は少なからずあったであろう。加えて、上記の戦で父を失った事もあり、反清の感情を抱いていた事は間違いないと言えるだろう。
鄭成功時代の活躍
1655年、陳永華は王忠孝の推薦を受け、厦門にて鄭成功と面会を果たし、「諸葛孔明の再来」と称賛されている。実際に後の活躍を見て、彼が優れた政治的見解を持っていたことは間違いなく、生い立ちを見ても故郷を戦争で追われた点、それによって当時の最大勢力に対する反感をもっていたであろう点など、実際に諸葛亮との共通点は多いといえるだろう。
1658年、鄭成功は北伐作戦を開始。軍議の段階では甘輝をはじめ、反対意見を述べる者が多かったが、陳永華はそれらの意見に反論し、北伐への賛意を示したという。陳永華は厦門の守備に残り、同時に鄭経の補佐兼教育を任された。主君の後継者の補佐を任されている点も、諸葛亮に通じるところがある。
その後1661年、鄭成功は台湾に進攻。翌年に死去するが、この間も陳永華は厦門に残り鄭経を支え続けていた。
鄭経時代の活躍
鄭成功の死後、後を継いだ鄭経であったが、その隙を衝いて清とオランダの連合軍が進攻。1663年、金門沖での戦いに敗れた鄭経軍は、厦門と金門を失ってしまう。そして翌1664年、鄭経は台湾に本拠を移し、陳永華もこの時渡台している。
その後の陳永華は、耕地開拓・市区村落制度の確立・教育施設の整備など、台湾に於ける国家の基礎作りに奔走する事となる。また鄭経に対して、台湾で30年の間、国内行政・人民の教育・優秀な人材の抜擢に励めば、清に対抗できる、と進言している。(政策の詳細は後述)
1674年3月、鄭経は三藩の乱に乗じて大陸に進出。この際、陳永華は東寧総制使に任命され、軍事と政治の実質的最高責任者となる。鄭経の遠征中、陳永華は従来の政策をさらに推し進め、東寧王国(鄭経政権)の発展と台湾社会の安定に大きく貢献した。
1679年4月、陳永華は鄭経の長子・鄭克𡒉を監国に就けることを進言し、採用される。鄭克𡒉は陳永華の娘婿であり、陳永華から実務教導を受ける関係であった。
三藩の乱に乗じて大陸に進出した鄭経であったが、戦況は徐々に清に傾いてゆき、1680年には撤退の憂き目に遭う。敗退を恥じた鄭経は、台湾に戻らずしばらく澎湖に留まっていたが、鄭克𡒉と陳永華が相次いで帰国を促す書状を送った為、帰還に至った。
遠征から戻った鄭経は政治に対する意欲を失ってしまい、政権内部には権力闘争の兆しが見られるようになっていった。このような中、1680年6月、陳永華は軍事及び政治の権限を委棄し、第一線を退いた。代わって、馮錫範と劉国軒が権力を握る時代に入っていく。
そして1680年7月、陳永華は世を去った。状況から見て、自然死の可能性は低そうであるが、真相は明かされていない。
経済政策
陳永華の行った経済政策には、以下のようなものがある。
- 田畑の開墾、穀物の栽培を奨励し、食料の備蓄に努める
- サトウキビを煮詰めて砂糖を生産し、他国と貿易して利益を得る
- 従来は海水を沸騰させて塩を作っていたが、太陽光で乾燥させる製法を導入し、品質を向上させた
- 清の将軍に賄賂を送り、遷界令の発令中も清との密貿易を行い、物価を安定させた
教育政策
陳永華の行った教育政策には、以下のようなものがある。
- 1666年、承天府に聖廟(孔子廟)を建設。周りに多くの学堂を建てる
- 各村落に私塾を建て、教師をおいて教育を行った
- 科挙制度の実施
これらの政策は主に、漢文化の浸透を意図して作られた物である。
公共政策
陳永華の行った公共政策には、以下のようなものがある。
- 賭博の禁止
- 土を焼いて瓦を作り、木材・竹材を切り出し、それらを用いて住宅環境を整備した
- 地方行政において、保甲制度を布いた。これは10世帯を1牌、10牌を1甲、10甲を1保とし、人民を管理する制度である。職業、婚姻、出生等の報告は保甲を通じて地方官に報告しなければならなかった