南京で科挙に向けての勉学に励んでいた鄭森であったが、時代は急転換を迎える。
1644年3月、李自成率いる農民反乱軍が明の首都・北京を占拠し、時の皇帝・崇禎帝は自害して果てた。
さらに5月、呉三桂に導かれて長城を越えた清軍が、農民反乱軍に代わって北京を占拠。李自成は逃亡の末に死亡した。
上記の北京陥落をもって、270年以上続いた明王朝の歴史に終止符が打たれた形となったが、中国南部各地では存命の皇族を擁立して、亡命政権が建てられた。そのうちの一つ、唐王・隆武帝(朱聿鍵)を福建で擁立したのが、鄭森の父・鄭芝龍であった。
1645年6月、隆武帝は即位式を行い、政権は動き出した。
8月、南京から戻った鄭森は隆武帝に謁見した。この際、鄭森の立派な容姿、聡明な受け答えを目の当たりにした隆武帝はすっかり気に入り、「朕には(卿に)嫁がせる娘がいないのが残念である。卿よ、わが家に忠義を尽くすことを忘れることなかれ」と語った。さらには明朝皇帝の姓である「朱」姓と、「成功」の名を鄭森に与えた。
これより鄭森は「国姓爺」と呼ばれることとなる。ちなみに「爺」は老人の意味ではなく、男性に対する敬称である。また、鄭森は朱姓を名乗る事を畏れ多いとし、自身を「鄭成功」と称し、字を「明儼」にあらためた。