1645年10月、鄭成功の母、田川マツが海を渡って福州にやって来た。鄭成功にとって7歳の頃以来、15年振りの再会であった。
隆武帝に謁見した当時の鄭成功は、尽忠報国、明朝復興の決意を日々募らせていたに違いない。しかし父・鄭芝龍はそうではなかった。芝龍は明朝復興ではなく、鄭家の繁栄を第一に考え、今後の身の振り方を思案していた。すなわち、「清に降るか否か」である。
そして1646年3月、先だって南京を占領していた清軍は、隆武帝政権攻撃の為、南下を開始する。総指揮を執るのは招撫江南経略・洪承疇であった。芝龍は内々に、洪承疇を通じて清に投降の交渉をしていた。時勢に聡い鄭芝龍が、明朝を見限った形であった。
6月、隆武帝は、迫る清軍に対し、鄭成功を仙霞関(浙江と福建の境)へ派遣した。そこへ、清への投降を促す芝龍の使者が訪れた。成功は父の意に反して、清と闘う決意を示し、追加の兵糧の手配を要求した。無論、芝龍は追加物資を送らず、成功はやむなく兵を帰すほか無かった。
8月、清軍は仙霞関を突破し、福建に侵攻した。隆武帝は汀州へ避難したが、捕らえられて殺害されてしまう(自ら食を断って餓死したという説もある)。
11月、芝龍は清に身を投じるため、福州へ向かった。この際、成功は涙ながらに父を諫めたが、聞き入れられることはなかった。父と子は袂を分かち、成功は安平から金門に居を移した。これが今生の別れとなることを、二人は知る由もなかっただろう。
この時芝龍に同行した一族の数は多くなかった。鄭一族の主立った者達は、皆自らの領地と私兵を所有していた為、清に潔く降ることを是としなかったのかもしれない。
ちなみに、隆武帝の死後、弟の朱聿𨮁が1646年11月、広州で「紹武帝」として即位したが、翌月に清に攻められ亡くなっている。