甘輝VSメイチャン・アクシャン

1656年12月、国姓爺は甘輝に命じて温台・連江・羅源・寧徳・舟山などを奪取させた。これに対して清軍は猛将メイチャン・アクシャンを派遣した。この時のアクシャンの軍は重装備兵であり、正面衝突を避けた甘輝は、撤退を繰り返した。追跡するアクシャンの軍が、重装備故に疲労の極みに達した時、甘輝は攻勢をかけ、アクシャンを討ち取ることに成功した。

戦費の捻出

かねてより、清軍との戦闘や和平交渉を繰り返してきた国姓爺であったが、同時進行で北征(南京攻撃)の準備も進めていた。明朝復興を掲げる国姓爺にとって、南京攻略は悲願であり、避けては通れない道であった。

その為の戦費をまかなう手段のひとつが、「日本乞師」である。これは、国姓爺が祖国・日本に対して行った、援軍及び物資の派遣要請である。国姓爺は1647年以降、数度に渡って乞師を行っている。結果的に援軍は得られなかったが、軍事物資の受領は実現している。

また、鄭氏のネットワークを駆使した海外貿易も、復明活動の資金を支えていた。鄭氏は貿易運営組織として、10の商行を持っていた。ひとつは、内陸で絹を中心とした物資を購入する「金・木・水・火・土」の五商。もうひとつは、内陸で購入した物資を海外に販売する「仁・義・礼・智・信」の五商であった。これら商行の利益は、戸部(財政官)の鄭泰によって管理されていた。

さらに鄭氏は、海上交通の安全管理を名目に、通行する船に「令旗」を販売。大きな収入源となっていた。

台湾からの使者

1657年6月、オランダ東インド会社の通訳・何斌が使者として国姓爺の元を訪れている。貢物を収める代わりに、大陸との貿易を求める使者に対して、国姓爺は許可を与えた。この際の使者・何斌は後に国姓爺の運命を変えることとなる。

第一次北征

1657年2月、国姓爺は張英・万礼に命じて温州を占領。

3月、国姓爺の叔父・鄭鴻逵が死去。

7月、北征(南京攻撃)の準備を整えた国姓爺は、厦門の守備に江旭・陳輝を残し、自ら艦隊を率いて出征した。

8月、浙江に到着。海門・黄岩・臨海・太平・天台各地を占領した。

9月、清の浙閩総督・李卒泰が国姓爺支配下の福州閩安鎮を奇襲したため、鄭成功はやむなく福建に引き返した。

鉄人部隊

1658年3月、国姓爺は厦門に演武亭(軍事演習場)を築き、兵士の訓練に努めていた。兵の中には、鉄製の兜や甲などの重装備に身を包んだ「鉄人」と呼ばれた部隊が存在した。

これは、1656年末に打ち取った清将メイチャン・アクシャンの部隊装備を参考にして作られたと言われている。鉄人部隊への選抜条件は「約180kgの石を抱えて、演武亭を3周できること」であったと言われている。こうして作られた鉄人部隊の指揮官には左虎衛・陳魁が任命された。

また一説には、鉄人部隊の中には、海を渡って来た日本人傭兵(武士)も含まれていたと言われている。

再びの北伐

1658年5月、国姓爺は再び南京攻撃の兵を起こした。なお、出征に先立ち、「民衆への略奪・暴行行為の一切を禁じ、違反者及びその指揮官は斬刑に処する」旨の布告が発せられた。かくして、黄廷、鄭泰、洪旭らを厦門に残し、国姓爺は北征を開始。兵員11万、戦船300隻の大規模な遠征軍であった。

6月、平陽、瑞安を攻略し、食料を調達。その後温州を包囲するも攻略できずに東進する。

7月、舟山に到達。同地で訓練を行いつつ、風雨をやり過ごす。

羊山の悲劇

1658年8月、国姓爺の艦隊は「羊山」という島に到着。鄭軍はこの島に停泊中、突如として暴風雨に襲われた。

この際の被害は甚大であり、戦船の3分の1が沈没し、8000人余りが溺死した。さらには、、国姓爺の妾6人と子供3人が命を落とした。『先王実録』には、この際「藩(鄭成功)は一笑を発し、各屍を収めて埋葬せしむ」と書かれている。指揮官たる者、弱音を吐けなかっただろうが、内心大きなショックを受けたことは間違いない。

この際の暴風雨に関しては、「海中に棲む龍の祟り」など、いくつかの迷信と結び付けて語られることが多い。しかし実際には、例年この時期・この地方で発生する台風に運悪く遭遇してしまったのであった。

いずれにせよ、この一件で北伐の継続は困難な状況となり、鄭軍は舟山に引き返して戦船の修理に専念することとなった。