進発

1661年2月、国姓爺は後方の任務配置を行った。南澳の守りに陳覇。銅山の守りに張進・郭義。金門の守りに鄭泰。厦門に長男の鄭経を残し、洪旭・黄廷・王秀奇・陳永華らを補佐とした。

後方配置を終えた国姓爺は、戦船を金門に集結させ、天候を待った。進発の直前になり、遠征を恐れて逃亡する兵が続出し、捕捉して復帰させるのに難儀した。

3月23日、鄭成功・馬信・周全斌・劉国軒・呉豪・楊英ら文武各官及び、兵士2万5千人、戦船300隻の軍が金門を進発した。

3月24日、澎湖諸島に上陸。風待ちの為、駐屯。

3月30日、食料が底をついた為、悪天候を冒して進発。

4月1日、台湾(鹿耳門)到着。

オランダ東インド会社

当時の台湾はオランダ東インド会社の半植民地と化していた。当時の商館長(オランダの台湾統治に於ける責任者)フレデリック・コイエットはゼーランディア城に駐屯していた。

少し時を遡った1660年3月、コイエットは近々鄭成功の侵攻があると見て、本拠地バタヴィアに援軍を要請していた。

9月20日、ヤン・ファン・デア・ラーンが援軍を率いて到着した。ラーンは、仮に鄭成功の侵攻が無かった場合、マカオを攻撃するように命を受けていた。ラーンは鄭成功が攻めてくるとは考えておらず、直ちにマカオを攻めるべきだと考えていた。しかし、コイエットは鄭成功の侵攻を確信しており、ラーンとは意見が衝突してしまう。

10月22日、鄭成功に向けて台湾侵攻の意思を問う使者を派遣。返答は台湾侵攻の意思を否定したものであった。しかし、台湾商館の評議会は、鄭成功侵攻の可能性は有り得ると判断。この判断に不満を持ったラーンは、率いて来た援軍と共にバタヴィアに帰還してしまった。

この時の台湾に於けるオランダ東インド会社の兵力は1500人程であった。

鹿耳門通過

1661年4月1日、国姓爺の軍は台湾外海に到達した。その時の様子をコイエット著とされる『閉却されし台湾』には「霧が晴れた後、多くの船が北線尾港口にあるのが見えた。マストは大変多く、森のようであった」と記されている。

外海から台湾に上陸するためには、オランダ軍の要塞・ゼーランディア城の砲台の射程内を通過しなければならず、由に少ない兵力でも、コイエットは守りを諦めていなかった。

しかし、国姓爺の軍は浅瀬で本来は大船が通過できない鹿耳門から、内海への侵入を試みた。鹿耳門は前述の理由から、ゼーランディア城の砲台の射程外であった。

国姓爺は、事前に何斌から献上された地図を見て、1年で限られた日の満潮時であれば、鹿耳門を大船が通過できることを知っていた。こうして、国姓爺軍は無事に鹿耳門を通過し、内海への侵入を果たした。

プロヴィンシア城陥落

1661年4月1日、鹿耳門を通過した国姓爺軍は、その日の内にオランダ東インド会社の要塞・プロヴィンシア城を包囲し、ゼーランディア城との連絡を遮断した。

対するオランダ軍は、トーマス・ペデル大尉が250人の兵で陸上から攻撃を仕掛けたが、壊滅し、ペデル大尉は戦死。海上では当初、オランダの戦艦が火力で国姓爺艦隊を圧倒していたが、主力のヘクトール号の火薬庫が爆発し沈没すると、他の船舶も逃走。国姓爺軍は陸海で勝利を収めた。

4月3日、鄭成功はプロヴィンシア城を守るヤコブス・ファレンタインと、ゼーランディア城のコイエットに対して、城の明け渡しを要求する書簡を送った。

4月5日、オランダの使者が鄭成功の元を訪れた。この際、オランダ側は、1636年に当時の長官ハンス・プットマンスと鄭芝龍の間で交わされた契約(芝龍がオランダの台湾領有を認めた内容)を持ち出して自国の正統性を示した。しかし、鄭成功は「台湾は漳州に属し、元来鄭芝龍の土地である。しばらくオランダに貸していただけである」とし、城の明け渡しを要求。応じなければ開戦あるのみ、とオランダ側の主張をはねのけた。

4月6日、ファレンタインがプロヴィンシア城の明け渡しを決意し、コイエット及び評議会がこれを承諾。これをもって、プロヴィンシア城は陥落。『海上見聞録』では、この際投降したオランダ兵の数は300名ほどであったとされる。

コイエットの抵抗

プロヴィンシア城を明け渡したオランダ東インド会社であったが、ゼーランディア城を守る台湾商館長、フレデリック・コイエットは徹底抗戦の構えを示した。

1661年4月26日、鄭成功はゼーランディア城に降伏を勧める為、オランダ人宣教師ハンブルークを派遣した。ハンブルークはコイエットと会見したが、降伏を説かず、徹底抗戦を呼びかけた。

4月27日、鄭成功は自身の元に届いたコイエットの書簡を読み、ゼーランディア城に降伏の意思が無いことを確認。これを受けて、国姓爺軍はゼーランディア城に攻撃を仕掛けたが、守りの固いゼーランディア城を崩せず、多くの被害を出した。

『先王実録』によると、この頃の国姓爺軍は食糧不足に陥っており、兵士の一部を食糧生産に回していた。その様な事情もあり、鄭成功はゼーランディア城を包囲して長期戦に持ち込む戦術に方針を変更した。

オランダの援軍

先日のプロヴィンシア城沖で行われた海戦で逃走したオランダの連絡船・マリア号が、5月22日、バタヴィアの総督府に辿り着き、台湾への援軍を依頼した。

5月23日、台湾救援の艦隊派遣が決定し、ヤコブ・カーウが10隻の船を率いて出帆した。

8月某日、カーウの艦隊が台湾に上陸。オランダ側は国姓爺軍に海戦を挑んだが、結果は大敗。この敗戦でオランダ軍は甚大な被害を出し、再出撃する能力を失った。

この頃、清の福建巡撫・李率泰は、コイエットに対して、共同で厦門を攻撃することを提案した。国姓爺軍の背後を襲う作戦である。コイエットは最後の希望とばかりに、厦門への艦隊派遣を決定。カーウが艦隊を率いて出航した。

しかし、澎湖島に着いたカーウは、口実をつけてバタヴィアへと帰還してしまった。敵前逃亡とも取れるこの一件をうけ、オランダ側の希望は潰え、ゼーランディア城は孤立してしまった。

ゼーランディア城陥落

1661年10月25日、オランダ軍のハンス・ユルヘン・ラディスがゼーランディア城を脱して、国姓爺軍に投降。ラディスは城内の兵士が残り少ない現状を告発。さらに、ユトレヒト堡塁を奪取すればゼーランディア城は容易に陥落することを提言した。これを受けて、国姓爺は包囲戦術を変更して、攻勢に転じた。

12月6日、国姓爺軍がユトレヒト堡塁を攻撃。同日、オランダ台湾評議会が降伏を決定。

12月13日、国姓爺とオランダ間で、戦いの終結を意味する和平条約が締結。

12月29日、コイエットは2000人のオランダ人と共に台湾を離れた。

こうしてオランダによる台湾統治時代は幕を下し、鄭氏台湾政権の歴史が始まることとなる。