生い立ち
字は文開。別名、斯庵とも呼ばれる。
1612年10月18日、浙江省殷県(現在の寧波市)に生まれた。代々官僚を輩出している名家の出身である。
幼い頃から歴史・古典・詩歌を学び、1630年に郷試(科挙の地方試験)に合格。その後、南京の国子監太学に入学している。
1639年に最初の妻であった舒氏と死別している。ちなみに舒氏との間に子は生まれていない。
魯王推戴
平和な時代であれば一官僚として生涯を送ったであろう沈光文であるが、当時は明から清への過渡期であり、それに伴い彼の運命も翻弄されることとなる。
1644年、山海関を越えた清軍は北京を制圧し、時の皇帝・崇禎帝は自死。明の遺臣は清に降る者も多かったが、沈光文が選んだのは抗清復明の道であった。
1645年6月、浙江省の明の遺臣は合議の末、魯王・朱以海を監国として紹興に迎えることを決議。沈光文も紹興へ赴き、魯王・朱以海の元で太常博士に任じられた。これは、祭事の準備や、王室及び諸大臣の諡号を決める役職であった。
1646年5月、清将ポロが浙江省へ侵攻してきた。魯王の軍は敗走し、結果、魯王は海上への逃避を余儀なくされた。この際、沈光文も付き従って避難している。
その後、約100日もの間海をさまよった魯王一行は、11月に鄭彩(鄭成功の従兄弟)の管轄する厦門に迎え入れられた。
1647年正月、魯王は長原において失地回復の宣誓を行い、同時に配下に対する任官と恩賞が行われた。沈光文は工部郎中(土木工事を管轄する職)に任じられた。
当初は勢いを盛り返した魯王政権であったが、内部で派閥争いが起こってしまう。政権内で建国公として重きを為していた鄭彩が横暴な性格で、殺人を繰り返したことが原因のひとつと言われている。政権内での派閥争いが仇となり、清軍の攻撃を食い止められなくなった魯王は、再び陸地に足場を失った。
そして1649年正月、魯王は福建と浙江の間にある沙城に移動を余儀なくされた。この時、沈光文は任務で南澳に移動しており、魯王退却の報を知った時には既に味方は海の彼方であった。沈光文は魯王と逸れ、孤立してしまった。
永暦帝政権へ所属
身の振り方に悩む沈光文であったが、結果的に永暦帝の元に身を寄せることを決意し、肇慶(現在の広東省)に赴いた。永暦帝は沈光文が到着すると非常に喜び、太埔寺卿(三品官)に任じた。
しかし沈光文は、ここでも内部の派閥争いを目の当たりにした。沈光文は自身の家族に対して、決して派閥争いに組みしないよう言い聞かせていた。
1650年11月、清将・尚可喜、耿継茂が広州を占領。同じく清将・孔有徳が桂林を占領した。永暦帝は肇慶を追われ、華南への逃亡を余儀なくされた。
沈光文はこの頃、定国公・鄭鴻逵(鄭成功の叔父)の監軍(軍の監督)として掲陽に派遣されていた。鄭鴻逵は当時、金門島に自らの軍を持っていたが、1651年に鄭成功の留守をついて厦門を襲撃した敵将を見逃したことから、鄭成功によって兵権を奪われた。
監督すべき軍が無くなり、永暦帝も清軍から追われている中、沈光文は金門島へ向かった(当時、鄭成功の保護下にあった魯監国・朱以海が金門に居たため、その縁を頼ったのかもしれない)。
沈光文の金門での生活は10年近くに渡り、その間、二人目の妻・陳氏との間に二人の子を儲けている。長男・种の生年は1655年又は1657年とされているが、次男は残念ながら早くに亡くなっている。
また、当時清朝の福建総督・李率泰は沈光文をスカウトするために使者を派遣し、金品と共に高官のポストを約束したが、沈光文は丁重に断っている。
台湾へ漂着
1659年。鄭成功が南京攻略に失敗した後、沈光文は反清活動の継続にあたり、金門島からの移住を考えていた。そうして家族を連れ、海路で泉州への移動を試みたが、運悪く台風に遭遇してしまう。そうして遭難した沈光文は、奇跡的に台湾へ漂着した。
台湾へ漂着した沈光文は、毎日島を歩き回り、山や港の地形、交通路、都市施設などの調査を行った。これは、自らの生活及び活動の拠点をかまえる為のものであったと推測される。なお、沈光文はこの時の調査をもとに、『台湾地図考』を著した。
鄭成功との会談
1661年4月、反清活動の為の新天地を求めて、鄭成功が台湾に進攻。同年12月には、オランダ東インド会社の軍を完全に追い払い、自身の政権を打ち建てた。
沈光文は、鄭成功の反清復明活動に共感しており、鄭成功による台湾開放を称える詩も書いている。
鄭成功と沈光文は会談も行っており、鄭成功が沈光文を招いて「礼をもって賓客としてもてなした」と残っているが、詳細な内容に関しては不明である。
また沈光文等は、清朝が行った遷界令に対し、大陸沿岸地域の難民を台湾に移住させることを提案した。難民の生活安定と台湾の発展が促されるとして、鄭成功はこの提案を受け入れている。
鄭成功の死後
1662年5月、鄭成功は台湾で死去した。その前年には永暦帝とその皇子が捕らえられ、処刑されている。反清政権の行く末を案じた一部の文官・武官は、魯王・朱以海を推戴して政権を組織しようと考えた。これは張煌言が発案したと言われており、沈光文も賛同を示した。
しかし1662年11月、朱以海は金門で病没してしまう。最近の研究では、朱以海の骨は死後黒く変色していたとされており、毒を用いた自殺もしくは他殺の可能性もある。
鄭経との確執
鄭成功の死後、後を継いだ長子・鄭経は当初、「台湾は中国の版図ではなく、海外の地である」と宣言していた。これを反清復明のスローガンを捨てて台湾に独立国家を樹立する旨の宣言である、と捉えた沈光文は、鄭経を批判する立場に立った。
沈光文は自身の著作『台湾譜』の中で、台湾と大陸は一体となり、中華の文化を継承し、儒教の教えを守っていくべきということを書き、清朝に抵抗し明朝復興の大義を復活させることを主張した。さらに、鄭経および、その周りの家臣団を批判した。
『台湾譜』を見た鄭経は怒り、沈光文を処刑しようとした。これを知った沈光文は北に逃亡し、羅漢門山中で一人暮らしを始めた。『台湾譜』は沈光文の身に危険を引き起こしたが、その内容は鄭経の痛いところを突いた物であり、結果的に鄭経の野心は目に見えない形で遮られた。
沈光文が逃亡した羅漢門山には先住民の高山族が住んでいた。沈光文は言語も習慣も周りと異なる環境で、一人で生活していた。
目加溜湾への移住
1674年、鄭経は「三藩の乱」に乗じて大陸に進攻した。この機に沈光文への圧力は弱まり、彼は目加溜湾周辺に移り住んだ。そしてこの地で私塾を開き、中国語を教え始めた。
1629年にオランダ人の植民地統治が始まってから、目加溜湾周辺ではオランダ語及び西洋文化が広まっていた。沈光文はオランダによる文化的侵略の有害性を感じ取り、中国文化の啓蒙活動を開始したのであった。
沈光文は言語だけでなく、中国の医学技術と漢方薬を台湾に伝えた。台湾先住民は病気になると、霊や神が原因であると考え、薬を飲まなかった。そのため、正しい治療を受けずに死亡する人が多かった。沈光文は自ら治療を行い、先住民たちを救った。
沈光文は目加溜湾周辺で教育・医療に従事し、その影響で西洋文化は徐々に衰退した。先住民の生活習慣も変わり、衣服として鹿皮を身にまとっていたが、綿製の衣服が普及した。
また、沈光文は台湾の風景や産物、先住民の生活、労働、習慣について中国人として初めて著作に書き記した。台湾で見聞したものを題材に、多くの漢詩も書いており、後に「海東文学の祖」「台湾文学の祖」と呼ばれることになる。
鄭氏政権滅亡
1681年に鄭経が亡くなり、後を継いだ鄭克塽は1683年8月、清朝に降伏。ここに鄭成功から続いた、鄭氏三代政権は終わりを迎えた。
抗清復明の望みが断たれ、台湾に留まる理由を失った沈光文は、帰郷を願うようになった。そんな沈光文の思いを察して、清の福建総督・姚啓聖は、沈光文を故郷まで送る人間を手配する旨の約束をした。しかし1683年11月、姚啓聖が急死し、この話も立ち消えてしまった。
晩年
1684年、清朝は福建省の管轄下に台湾府を設け、台湾・鳳山・竹洛の三県を設置した。竹洛県の初代県令・季麒光は、晩年の沈光文と出会い、親しく接した人物である。
季麒光が竹洛県の県令を務めたのはわずか2年だったが、その熱心な勤めぶりを沈光文は称賛した。季麒光も沈光文の国家観を称賛し、高く評価した。
季麒光は沈光文の業績が風化してしまうことを恐れ、『台湾府志』の中に『沈光文伝』を著した。その中には、「君子は将来、沈光文を認めることになるだろう。詩人も先駆者として沈光文を取り上げるべきである」と書かれている。
季麒光がいなければ、沈光文の歴史的貢献はおそらく人々に知られなかっただろう。沈光文が先住民の病気を治療しているのを実際に目撃し、文章に書いたのは季麒光である。沈光文が教育・医療に従事し、人々を救った最初の中国人であることを世間に広めたのも季麒光であった。
1688年7月13日、沈光文は永眠した。享年77。沈光文の子孫は、彼の遺体を故郷の寧波に埋葬しなかった。もしかすると沈光文には遺言があり、台湾で先住民達と共に眠ることを望んでいたのかもしれない。