長泰攻略

1652年2月、鄭成功は中提督(水陸提督)の甘輝に福建・長泰城の攻略を命じた。3月、清の援軍・閩浙(福建・浙江省)総督の陳錦が到着したが、同時に鄭成功の軍も到着。戦闘の末、長泰城は落城した。

漳州包囲戦

長泰城を攻略した国姓爺は更に軍を進め、1652年4月、漳州城を包囲した。この包囲戦は半年に及び、城内は人相食み、死者70万を出したという。しかし9月に清将・金礪の援軍が到着した為、鄭軍は撤兵した。

この戦いは両軍共におびただしい被害を出し、得る所はほとんど無かった。この時、鄭成功はいきり立ち、引き揚げてきた部将に対し、敗退の罪で全員を斬ると通告した。驚いた甘輝が、原因は自然条件の欠失による、と釈明し、ようやく落ち着きを取り戻したという。

なお、この戦いの最中、清の閩浙総督・陳錦は、下僕の庫成棟を些細な罪で虐待した。恨みを抱いた庫成棟は陳錦を殺害し、その首級を持って鄭成功に降ろうとした。しかし、鄭成功は主を殺害した罪を赦さず、庫成棟を処刑した。

庫成棟を受け入れれば、同様に投降者が増え、戦いを有利に進めることができたかもしれないが、鄭成功は一時の利益より公義を優先した判断を行った。

芝龍の使者

1653年1月、鄭成功の元に、清との和平を促す父・芝龍の使者・周継武が訪れた。これに対して鄭成功は、返事の書簡をしたため、使者・李徳を北京にいる父の元に派遣した。書簡の内容は「1651年の張学聖による厦門襲撃が今日の情況の発端であること」、「現状、軍容は充実しており、簡単に解体はできないこと」等を挙げ、投降を拒否したものとなっていた。

海澄防衛

1653年5月、清の将軍金礪が海澄城に攻めてきた。清将・金礪は大小の火砲数百門を駆使して攻撃を展開。対する鄭成功は、自ら陣頭指揮を執って防衛を行った。互いに大きな損害を出したが、結果的に金礪は海澄城を落とせずに退却した。

勅命拝辞

1653年、鄭成功の元へ永暦帝の使者が訪れ、「延平郡王に封じる」という勅命を伝えた。これに対して鄭成功は、永暦帝の出兵要請に成果を出せなかったことを理由に、勅命を排辞した。また同時に、功績のあった部将達への授爵を請い、許可されている。

実際に鄭成功が延平郡王に封じられるのは、これより2年後の事となる。

芝龍の招撫

1653年8月、父の元に派遣した李徳が、返書を携えて北京から戻ってきた。そこには、「招撫に応じれば、海澄公に封じ、泉州の地を与える」とあった。これに対して鄭成功は、浙江、福建、広東の三省の自治権を要求した書簡を送り、芝龍の招撫に応じない考えを示した。

清政府との交渉

鄭成功に対する招撫に関しては、芝龍を介さない、清朝政府と成功の直接交渉も数回試みられている。1653年11月、清朝は成功に対して、漳州・潮州・恵州・泉州の自治権を与えて招撫を促した。続く1654年2月、清朝は、海澄公の印を携えた使者を派遣し、招諭を求めた。1654年7月には、清朝は態度を一変させ、脅しの文書を送って成功を牽制した。

対する成功側は、「浙江、福建、広東の三省の自治」「自主独立を保持し、朝貢もしない」「弁髪の拒否」等の条件を提示した結果、上記の交渉はことごとく破談に終わった。

芝龍への最後の手紙

1654年8月、清朝は招諭の為、成功の元に芝龍の第三子・鄭渡(成功の腹違いの弟)を派遣した。鄭渡は涙ながらに、北京にいる一族の命運をかけて成功を説得した。しかし、成功は弟に対する同情を見せつつも、自身の変わることのない決意を表明し、鄭渡を見送った。

またこの時、成功は芝龍に対して、生涯最後の手紙を書いている。「清朝は父上を利用しようとしているだけです。私も少しは名の知られた男。軽率なことをして、天下の笑い者になりたくはありません。もし私の為に父上の身に異変が起きましたら、私は喪服を着て報復し、忠孝の道を全う致します」

この後、清は強硬姿勢に転じ、報復措置として鄭芝龍を投獄した。

劉国軒

1654年10月、鄭成功は漳州に軍を進めた。守将の劉国軒は、かねてより国姓爺を慕っており、ただちに投降。続いて泉州の各城も降伏し、鄭成功は漳州・泉州を制圧した。

仙遊攻撃

1655年1月、成功は甘輝に命じて仙遊(福建省)を攻撃。激しい抵抗に遭うが、神器鎮・洪善の提案した、火薬樽を城内に転がせる戦法により勝利を得た。

六官制度の創設と厦門の改名

1655年2月、成功は自勢力の体制を刷新した。吏・戸・礼・兵・刑・工の六官を置き、その下に左右司務(後に左右都事に改称)を置いた。

また、六官の他に察言司・承宣司・賓客司・印刷局・軍器局を設けて、政治・命令伝達・賓客接待・印鑑や兵器製造に責任を持たせた。

同時期に、厦門を「思明州」と改名。これは明朝に対する忠誠を示すと共に、本拠地を内外に知らしめたものである。

ちなみに、明朝の制度は六官ではなく六部であり、都の呼称は州ではなく府である。これは明朝の制度から1ランク下げることで永暦帝政権に対する配慮を現したものである。

延平王受封

1655年4月、永暦帝は厦門に周金湯、劉国柱らを派遣し、鄭成功を「延平王」に封じた。2年前に一度は辞した成功であったが、今回は快く受封している。

清軍襲来

1655年5月、鄭成功討伐の命を帯びて、清将・済度率いる3万の軍が福建に入った。

対する成功は、福州・興化・泉州の兵を漳州に集結させた。7月、成功は攪乱効果を狙い、甘輝・王秀奇を北上させ長江攻略に、黄廷・万礼を南下させ広東攻略に派遣した。

10月、甘輝率いる北征軍は、舟山を攻略。

11月、済度は成功の招撫を試みるも失敗。

1656年1月、清の平南王・尚可喜が潮州の掲陽を攻撃。鄭軍の蘇茂と黄梧は守りきれずに敗退した。

4月、済度は厦門に進軍したが、暴風に遭ったところに国姓爺の攻撃を受け、撤退を余儀なくされた。

5月、潮州の敗戦の責を負い、蘇茂は斬られ、黄梧は譴責処分を受けた後、海澄の守備を任された。

6月、清の招撫を受け、黄梧が海澄を明け渡して投降した。

8月、清軍が舟山を奪還する。

何とか済度の大軍を退けた国姓爺であったが、要衝の海澄を失い、後に遷界令を提言する黄梧を離反させたことは大きな痛手であった。