台湾統治
鄭成功はオランダと交戦中の間から、戦争終結後の台湾統治を視野に入れて動いていた。
プロヴィンシア城を降伏させた後、同地一帯を「承天府」と命名。承天府以北を「天興県」、承天府以南を「万年県」とし、台湾の地に中国の統治体制を組み込んだ。そして慢性的な食糧不足を補う為、将兵に対して台湾永住と屯田をすすめる政策を打ち出した。ちなみにその際、原住民とトラブルを起こしてはならない、と厳命がなされていた。
ゼーランディア城陥落後は、同地を「安平鎮」と改名し、台湾全土を「東都」と称した。
また、積極的に鄭成功自らが巡行し、原住民の懐柔に努めている。武装した部隊を引き連れ、威嚇すると同時に、多くの生活必需品や嗜好品を分け与えた。そして、原住民の代表者が来訪した際には、袍・帽・靴・帯など、権威の象徴となるものを与え、代わりに忠誠を約束させた。
芝龍と永暦帝の死
新たな拠点を構えた鄭成功であったが、彼の元に相次いで悲報が届く。
1662年1月、鄭成功の元に父・芝龍の処刑報告がもたらされた。享年58。清に拉致されてから15年が過ぎていた。
処刑は1661年10月に済んでおり、罪状は鄭成功との内通であった(真偽は不明)。同報告には、福建にある鄭氏祖先の墓が破壊されたこと、これらの実施は清に降った黄梧の進言した「平海五策」によるものであること、さらに大陸で「遷海令」が出されたこと、が記されていた。
父の訃報を知った鄭成功は泣きながらも「私の言を聞いていれば殺されることはなかっただろう。しかしながら、今日まで生きることができたのは不幸中の幸いであった」とつぶやいたという。
さらに鄭成功は1662年4月、南明最後の皇帝・永暦帝が清軍の攻撃を受けてビルマに逃げ込んだ、と報告を受けた。この報告をもたらした使者は、自身が永暦帝の元を離れる時点で、清軍の呉三桂がビルマに攻め入っていたため、現在永暦帝は殺害されている可能性が高い、と語ったとされる。
実際に永暦帝が殺害されたのは1662年4月15日であり、鄭成功が生前にその情報を得ることができたかどうかは定かではない。しかし、永暦帝の使者からの報告を受けた鄭成功は、その様子から自身のスローガンである「復明」が絶望的であることを感じたに違いない。
ただ、この先鄭氏政権は三代に渡り「永暦」の年号を用い、明の正統性を主張し続けた。
親を殺害され、精神的な支柱であった復明の目標も失った鄭成功。そのショックは測り知れない。
家庭の分裂
失意の鄭成功に、追い打ちをかける出来事が起こる。
厦門の守備に残していた長男の鄭経から、初孫誕生の報せが届いた。当初は大いに喜んだ鄭成功だったが、後にこの新生児が、鄭経と四弟の乳母である陳氏が密通して生まれた子であると判明した。
この時の鄭成功の怒りは凄まじく、直ちに厦門へ使者・黄毓を送り、鄭経、陳氏、新生児、そして監督不行き届きの罪で自身の妻である董氏も含め、計4名の首を持ち帰るよう指示した。厦門を任されていた鄭泰は苦心の末、陳氏と新生児の首を斬って黄毓に持ち帰らせた。
しかし鄭成功の怒りは収まらず、自身の佩剣を黄毓に渡して再度厦門へ送り、鄭泰に命令通り執行するように迫った。
ここで厦門・金門の諸将は鄭成功の命令を拒否することを表明。組織にとって致命的な亀裂が生まれてしまう。
これより以前、鄭成功は厦門・金門側の諸将に対し、家族を台湾に移すよう指示していた。しかし、台湾では風土の違いから病を発する者が続出していたことに加え、台湾に渡ることで鄭成功の厳罰主義にさらされる、という不安感が諸将の決断を鈍らせたとも言われている。そこに鄭経の件が重なり、厦門・金門諸将はついに鄭成功に対する反発行動に出たのである。
厳格な軍律をもって事に当たってきた鄭成功にとって、頼りにしていた諸将と家族からの命令拒否は多大な精神的負荷となったに相違ない。彼の悲しみと絶望は如何ばかりか。
フィリピン招諭
相次ぐ悲運の中、鄭成功は新たにフィリピンに目を向けた。この地を併合し、台湾からフィリピンにかけて南海の海洋王国を築けば、清に対抗することも夢ではない。
当時のフィリピンはイスパニア(スペイン)の植民地となっていた。中でもルソン島には多くの華僑が移住して来ていたが、イスパニア人から度々迫害を受けていた。鄭成功はここに目を付け、使者を派遣した。
1662年4月、ローマ人宣教師ビットリオ・リッチが使者としてフィリピンのマニラに出発。5月上旬に到着し、書簡を届けた。書簡は勧告を促すものであり、極めて恫喝的な内容であった。
鄭成功の書簡を見たイスパニアのフィリピン総督は激怒し、マニラの華僑を追放。鄭成功の要求を拒絶し、徹底抗戦の意思を伝える書簡を7月に送った。しかしこの書簡に鄭成功が目を通すことはなかった。
この書簡が台湾に届いた時、鄭成功はすでに死去していたのである。
英雄の最後
鄭成功は1662年5月1日に体調を崩し、5月8日に亡くなった。
鄭成功は亡くなる数日前より、将台から遠くを望み、厦門・金門からの使者を心待ちにしている様子であったとされる。厦門・金門の家族及び諸将の動向が気掛かりで仕方ない、といった心情を察することができる。しかし、彼の生前、厦門・金門から使者が現れることはなかった。
『台湾外記』によれば、5月8日、将台から遠くを眺めていた鄭成功は、書室に戻って正装し、太祖・朱元璋の遺訓を読み上げた。続いて儀礼を行った後、胡床に座り、書を読み酒を口にした。すると突如「我いかなる顔で先帝にお目見えできようか!」と嘆き、両手で顔面を搔きむしって亡くなった、とされる。39歳であった。
鄭成功の死因は肺炎・マラリア・傷寒・肝炎など、諸説ある。しかし、亡くなる寸前の鄭成功は、精神的に異常をきたしていたと言われており、前述の『台湾外記』の記述を見ると、自傷行為で死に至った可能性もある。
いずれにせよ、鄭成功の晩年は決して幸福なものではなかった。両親は殺され、子は不義を為し、配下は従わず、復明の望みも絶望的な状況での最後であった。
その後
幸福な最後を迎えることはできなかったが、国姓爺・鄭成功は後世の人々から敬愛される存在となる。
後に鄭氏政権は清に降ることとなり、鄭成功の子孫は、台湾にあった鄭成功の柩を一族の故郷・福建の南安に移すことを願い出た。すると清の康熙帝は「成功は明室の遺臣にして、朕の乱臣賊子に非ず」と述べて帰葬を許した上、塚守りの家まで建てさせた。
清末の1875年には、清政府が台南に鄭成功の廟を建てることを許可。この廟は現在「延平郡王祠」と呼ばれ、人々に親しまれている。
現代、台湾では開拓者として「国神」と評価され、中国では最後まで異民族と戦った民族的英雄として、誰もが知る存在であるが、日本での知名度はいまひとつといった感が拭えない。別述するが、鄭成功を主人公にした「国性爺合戦」が現代の価値観では受け入れられにくいのが大きいように感じる。とは言え、近年ではゲームに登場するなど新たな展開もあり、今後が楽しみである。