施郎出奔

1651年の厦門奪回に功のあった施郎は、後に罪人の曾徳という者を、成功の意向を無視して処刑してしまった。これに対し成功は激怒したが、施郎は難を避けて逃走し、清に帰順してしまう。

元来、施郎は軍略に関して非凡な才能を持っていたが、我の強い性格だった様で、鄭成功と折り合いが悪かったとされる。清に降った施郎は「施琅」と改名し、成功の孫・鄭克塽の時代に鄭氏政権を滅ぼす張本人となる。

漳州進攻

1651年5月、成功は甘輝や蘇茂らの将を率いて漳州の南渓を攻め、清の漳州総兵・王邦俊の軍を破った。

6月、成功は一旦、厦門に引き揚げた。この頃、清将の黄興と黄悟が投降してきている。

9月、成功は再び出兵し、漳浦を攻めた。王邦俊が再び迎撃にでたが、またもや敗れている。

11月、清の援軍・楊名高の軍が駆けつけたが、成功はこれも破り、漳浦を陥落させた。これにより、成功の勢力範囲は漳州から泉州にまで及んだ。

魯王保護

1651年から52年にかけて、浙江省・舟山列島を拠点にしていた魯王・朱以海(南明政権の監国)が清軍の攻撃を受けた。清の閩淅(福建・浙江)総督・陳錦の軍が舟山に攻め寄せ、魯王は鄭成功の拠点・厦門に逃れて来た。

既に永暦帝を明の正統として奉じていた成功は、監国(皇帝の代理)の称号を取り去ることを条件に、魯王を受け入れることとした。魯王・朱以海はこの条件を容れ、これより金門島に居住することとなった。

この際、魯王配下の張名振、張煌言、周崔之、阮駿らが鄭成功の指揮下に入り、軍容は充足した。

海澄進攻

1652年初頭、鄭成功は福建省・海澄に攻め寄せた。海澄は厦門・鼓浪嶼の対岸に位置する要衝であり、この地を抑えることは本拠の安全維持及び、大陸進出の際の拠点確保の面から必須であった。

成功は30艘の軍艦を率いて、夜間に進軍した。敵に気づかれず海澄を包囲した成功は、全軍に軍鼓を叩かせて敵に降伏を促した。対する清将・郝文興は城民の安全確保(略奪・暴行の禁止)を条件に降伏。これを容れた鄭成功は、犠牲者を出すことなく海澄の占拠を成し遂げた。

周全斌

鄭成功が海澄を占領した頃、成功は周全斌という人物と会見している。この人物は金門の出身で文武の才を持ち、漳州で官吏に就いていた。

会見の内容は、今後採るべき、鄭成功軍の方針についてである。

●孫可望、李定国と呼応して広東から江西に進軍し、洞庭湖を経て江南を攻略する

●舟山列島を占領し、北方から来る清軍を分散させる

●南澳を占領し、清の南方侵略を阻止する

●外国と海上交易を行い、食料や軍需物資を補給する

●漳州・泉州を占領し、福建全域に勢力を拡げていく

上記のような周全斌の提言に対し、鄭成功は賛同し、周全斌を幕下に加えた。これ以後の鄭軍の反清活動は、この際の提言に沿って進められていくこととなる。